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「日本語版と英語版」?

誤った認識と、このページの理念について

ここ数年、実感しているのですが、シャドウランについて、「日本語版と英語版 (原書版)」という分け方をされている方が大勢いらっしゃいます。
最近、実はこれが大きな問題だと考えています。

日本語版のルールブックは英語版のルールブックと根本的な差はありません。
内容を比較して見る限り、構成や文章もほぼそのままであり (ほぼ一対一で対応しています。その点では、エラッタを作成するのは非常に簡単でした)、疑いようもなく「直訳」であるというのが、エラッタを作成した者としての考えです。意図的なアレンジと考えられるものはありませんでした。

そのためか、日本語版ルールブックだけを読んだ方は、ルールブックで表現されているイメージ通りの「クールでドライな」シャドウランを求めることが多いようです。
ところが、コンベンションなどに行って、他のシャドウランファンと一緒にプレイをすると、うまく噛み合わず、相手からは「これだから、英語版ユーザーは…」「これだから、シアトルフリークは…」「マニアは…」などと言われ、嫌われるのだそうです。同じ日本語版ユーザーであるにもかかわらず、です。
詳しく調べてみると、実は、そういうことを言う「他のシャドウランファン」というのは、リプレイの読者であったりするのです。

これは、非常に変だと思いませんか? (私は、異常事態だと思っています)
同じルールブックを持ち、使っているにもかかわらず、大きな「溝」が間に出来てしまうのです。

なお、断っておきますが、ルールブック翻訳自体は (誤訳を除けば) 特に問題はないと考えています。先に説明したように、「直訳」であり、ルールブックだけであれば、日本語版ユーザーと原書ユーザーとの間に違いはありません。(さまざまな方々とお会いして、話をしてきた結論です)
もし、日本語版ユーザーと原書版ユーザーに差ができるとすれば、日本独自のリプレイや小説やコミックを鵜呑みにしているかどうかであると考えています。あれは、仕事 (ビズ) をやっていない、つまり「シャドウラン (これはゲーム名ではなく、ゲーム内用語のほうです。半合法、半非合法な計画を実行するための一連の活動、というやつです)」をやっていません。報酬を貰わなかったり、私情に流されて依頼を放棄したり。もちろん、絶対にやってはいけないということではありませんが、いまのところ日本独自のものでは「それだけ」しか提供されていない。あまりにも、ゲームの意図する方向とは違うほうに偏りすぎています。
ランナーが義理人情に走ってももちろん構わないんですが、それは本人にとっては、非常に重い選択なのです。実は、周りが「クールでドライ」な世界で、人情を押し通すというのは、とてもハードなスタイルです。しかし、決まればすげーかっこいい。
でも、周りが義理人情優先である中で、付和雷同しているのは、かっこよくもスタイリッシュでもない。埋もれて目立たないだけです。
私は日本独自展開に否定的ですから、この「溝」の原因は、「リプレイ読者」シャドウランファンの狭量によるものだと考えてしまいがちでした。
ですが、冷静に考えてみれば、「英語版ユーザー」とか呼ばれてしまうタイプのプレイスタイルを、日本独自展開では一切無視してきたこと、つまり、富士見書房とグループSNEという紹介者のやり方に問題があると考えられないでしょうか。

このような相談を、2年ほど前から、合計で5、6人ほどの方々から受けてきました。私ごときに相談をされる方だけでもこれだけいるのですから、日本全体では悩んでいる人 (あるいは、すでにシャドウランを止めてしまった人) はどれほどの数がいるでしょうか。



「日本には日本人に合った独自展開がある。それに文句を言わないで欲しい」という方がいらっしゃいます。

それが「シャドウラン」である必要があるのでしょうか?
「シャドウランらしさ」はどうなってしまうのでしょう。

日本人好みのものを作るなら、「Shadowrun」を翻訳する必要はなかったはずです。グループSNEと富士見書房がどういう考えで「Shadowrun」をターゲットにしたのか、真実は知りようもありませんが、「Shadowrun」にそれだけの価値があると考えなければ、普通は翻訳を行なわないはずです。しかし、それを売るために、元を大きく改変するのであれば、本末転倒です。

「シャドウラン」には「シャドウラン」の面白さがあります。それは数十冊に及ぶサプリメント、シナリオ、小説などから構成される十分に多面的な面白さです。
シャドウランの世界というのは、「裏返しの近・現代史」「モラルの崩壊 (こちらのほうは「サイバーパンク」全般にいえる特徴ですが)」といった特徴があります。これはルールブックの「かくて世界は… (AND SO IT CAME TO PASS...)」を読むだけで、ひしひしと伝わってきます。
これを押さえなければ、「シャドウラン」である必要はないと言い切れるでしょう。

翻訳は「創作」ではないのです。製作者の意図を伝えるのが第一条件であり、それを完璧に果たした上でなら、アレンジや付帯物を作ることもまったく問題ないと考えますが、サプリメントや小説の翻訳を一冊も出していない現状では「シャドウランという名を利用した独自創作物発表に終始してしまっている。シャドウランそのものを日本に紹介しようとしていない」と言わざるをえないのではないでしょうか。



そう考えた時に、結論がでました。リプレイ等とは別のプレイスタイルもあるのだということを、はっきり示さなければいけない。富士見書房とグループSNEは企業ですから、とにかく数を捌く、利益を優先して現在の販売展開をしていると思われるので (マルチメディアな商品ラインナップには、完全に一本化された方針があるほうが、創造力を要求されないぶん、販売側にとっては楽です)、あてにはできません。
日本独自展開を褒めるのは、企業側が自分たちの広報能力を使ってやるだろう。すでに、雑誌の読者投稿欄などではそういった展開がなされている。それは、私がやる必要はない。
私は、日本では異端にされてしまった「ルールブックを先入観無く読んだ際のイメージ」、それをリプレイなど日本独自展開商品だけの読者に対してアピールすることに集中しよう。

「日本語版ばかりを批判する」と非難されることがあります。間違いの指摘は確かにたくさんありますが、日本独自製品の批評はほとんど行なっていません。日本独自のリプレイや小説やシナリオの問題点を挙げていくことは非常に簡単ですが、すでに説明したように、それだけでは何の意味も持たないのです。一方で、エラッタや FAQ や Q&A など、FASA版、日本独自展開にかかわらず、分かりにくい点や問題点を整理する試みを行なっています。



これらの点について、自称『日本語版ユーザー』の方々にもご理解いただければ幸いです。

武藤 潤(Jun Muto)


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